第十六話
◆
ファンロ=バルダビョンはリエリア城専属の庭師である。
元は水兵隊師団長と言う役職に就いていたが、現役を退き、
役職自体も今は無くなっている。
水の国に生まれ落ちて六十八年、水の国にはその六十八年も忠誠を誓い続けている。
レヴェッカ達にはファン爺と呼ばれて親しまれていた。
(ヤレヤレ、老体は堪えますな………、よもや若造に遅れを取るなど)
キチッキチッと定期的な音を伴って鋏を斬り入れ、大きな盆栽の外観を整える。
此はリエリア城一階の大広間であり、彼だけ一人置き去りに、通り過ぎる者は三倍速で動いているようにも見える。
しかしそんな喧騒何処吹く風で、彼はノンビリとした手付きで、
鋏を入れては、少し引いて外観の全容を確かめている。
それを誰も咎めたりはしない。
ファンロ自身も、邪魔にならない場にて作業を進めている。
盆栽共々、空気扱いだ。
その盆栽は入口から壁際に十数本並べられている。
何でも、新鮮な空気を取り込む為にと先代皇帝の時代から続いているのだ。
しかし現皇帝のラヴァリーにとっては、どうでもいい程度の認識でしかない。
だから、全く気にも留めはしないので、ファンロはクビにもならず、
こうして式典の真っ只中でも、一人だけ異なる時間を過ごしている。
「………おや? 腕が鈍りましたかファンロ様。左右対称には大凡見えませんね」
そんな空気の爺様の背後から、不意にお声が掛かった。
「これはこれはカナード様…、誠に御恥ずかしゅうございます」
ファンロはゆったりとした被り物を取り、色が抜け落ちた髪を見せ、恭しく頭を垂れた。
カナードが『頭を上げて下さい』と言うまで、その体勢は揺れすら無く不動で在り続けた。
「らしくありませんね…。何処か具合でも悪いのでしょうか?」
「滅相もない。この老いぼれ元気だけが取り柄でして」
カナードは自らの丈の倍程ある盆栽を見上げた。
やはり対称には見えない。そしてファンロにあるまじき雑な仕上がりだ。
更におかしいのは、それがこの木にだけと言う事。
他はいつも通り、美しく調えられている。
やはりファンロに異常があるのだと、カナードは見做した。
「ファンロ様、何処か御怪我をなされているでしょう。御見せ下さい、治して差し上げます」
「と、とんでもない! カナード様の尊い魔力を使う程の価値、この老体にはございませぬ!」
「ファンロ様に隔意を持たれるのは、とても悲しい事です」
この後、ファンロとカナードの平行線のような論義が続く。
ファンロは異常は無いとカナードの治癒を嫌い、
カナードは異常はあると負傷場所を迫った。
そうして更に暫くの時が過ぎ、痺れを切らしたカナードが均衡を崩して強行に出る。
「分かりました。ならばファンロ様の全身を治癒しましょう。それならば怪我の場所を問い質す手間も要りません」
「ちょ、カナード様、困ります! そのような大それた魔法を先の短い老人に使わないで下されッ」
「これはファンロ様の本望ではないでしょう。ならば早急に怪我の場所を御教え下さい。そうすれは私の魔法も小さくて済みます。………これが最後通告ですよ?」
カナードの口がニヤリと綻ぶ。
それは勝利を確信してだ。
ファンロ如きでは、絶壁の魔女に敵う筈も無い。
「…実は先程、城内にて不審な者を見掛けまして、問い質して見たものの、取っ組合いとなりまして………」
申し訳なさそうに、ファンロは右腕の裾を捲った。
そこには真新しい包帯が巻かれており、淡い朱の色が覗く。
カナードは、糸目な瞳を薄く開けて、その有様を観察した。
「………その者に斬り付けられたのですね?」
「グニャグニャと間接を曲げる特異体質のようでして、要領が掴めずナイフで浅く斬られてしまいました。面目無い…。
其は捕らえて三塔のアーゲット様にお渡ししておきました」
「御苦労様ですファンロ様。他の者は気付けないでいたのに、よくぞ気付けました。
その功績は大きいですよ、後で上に伝えておきましょう」
そう言うと、カナードは二の腕の傷口を、包帯の上から、ゆっくりと擦っていく。
淡い光と共に、カナードの魔力が注がれ、傷が癒されていくのをファンロは感じていた。
それは数秒も満たない。
しかしこの時、確かにファンロの傷は治っている。
「私は皇族に仕える身ですが、この魔法を皇族の為だけに使うと誓った覚えはありません。
私の力を必要としているなら何処でも参じて全力を注ぎますよ。それが私の魔法使いとしての在り方です」
柔らかな笑みを残し、カナードは踵を返した。
仄に香る甘い匂い。
ファンロは、最高の魔法使いと人々から思慕される絶壁の魔女に呆然と見惚れていた。
「身に余る御言葉…。愚老の要らぬ気遣いを御許し下され…」
そして、これからも水の国は安泰なのだと確信した。
この国に魔法使いがいる限り。
「そうですファンロ様、今日中にメレアが此を通りましたら、私の部屋迄来るように、と御伝え下さい―――」
……………
……………
……………
生誕式典が無事打ち上げた。
リエリア城敷地内では整然が行われ、只今終止が付いた所だ。
広い庭に、中央噴水。
何とも質素だが、これが本来のリエリア城敷地の姿。
霹靂とした柄の間の喧騒も、過ぎれば侘しい感傷が胸に湧いてくる。
噴水が鳴らす水の音が、粛粛と私の鼓膜を打ち続けている。
それぐらい、閑寂としていた。
既に時刻は暮夜になる。
「リエリア城内の慌ただしさもこれで見納め、か」
普段と違って、内部の人間が目まぐるしく入出を繰り返し、内部は正に『戦場』であった。
早朝、料理長の激が姫様の私室に響き渡るぐらいだ。
リーゲル等は今日をリエリア城で過ごし、明日発つらしい。
三塔達は皇女護衛以外、既に現地解散している。
どうやら今日見掛けた三塔は協会から、今から二十日先迄の休みを貰えるそうだ。
確かにそれ程の見返りがなければ、割に合わないだろうと、聞いた時は率直に頷いたものだ。
私は当初、三塔は護衛の強化として集められていたと思った。
それは間違いではない。確かだ。アーゲット達は明らかにその主命で今日を動いていた。
たが、それとは又別の威令が協会からあったらしい。
内容は、…中々に筆舌し辛い。
女という武器を使って、相伴の真似事をしていたのだ。
魔法使いとしての本分から大きく外れた使われ方だ。
私ならば、身を触られようものなら、雷弾を顔面に喰らわせてやる所だ。
いや、それは出来ない、か…
当たり前だ。だから接待していた連中は誰もやらなかった。
私は、第一皇女護衛なので、その威令対象から外されていた。
今日程、皇女護衛と言う任に感謝した日は無いだろう。
浅い溜息を一つ零し、私は何気無しに首を空へ上げた。
「メレア…。………朱い、な」
見上げた夜空に、自分が居る。
満月―――、"メレア"
今日は特別、朱い。
珍奇な訳ではないが、珍しい事に変わりはない。
一の音周期だったか。
式典はこの朱いメレアに合わせているのかも知れない。
「…………」
長く見る事はなく、朱いメレアから視線を逸らし、手早い動作でリエリア城へ入り込んだ。
何となく、奇異を感じた。
何となく、だが。
リエリア城内部には人工的な光が具備されている。
素となる電気は、雇われの魔法使いが精製しているらしい。
何とも不様な使われ方だが、その者達のお陰で、陽が沈んでもリエリア城は明るいままだ。
尤も、明るいのはこの正面ホールのみなのだが…。
それ以外は蝋で補っている。
私の私室等は今頃、暗闇が落ちているだろう。
今、正面ホールには城内の者が数人程、式典での後始末に没頭していた。
姫様が楽しみにしていたこの祭も、あの場で残骸を残すのみだ。
その姫様はと言うと、あの後、リーゲルの計らいで私室に幽閉されてしまった。
何とか口添えを、と思ったが、リーゲルが余りに正論だったので無理だと早々に諦めた。
因みに、私には向こう半年の無給奉仕がその場で言い渡されている。
驚く程に軽い罰だ。不服を申し立てたが、リーゲルは『忙しい』と取り合わなかった。
軽くお辞儀をして、残業に追われる城内の者共を過ぎる。
横目で見る限り、数刻もしない内に終わりそうな内容だ。
この後、地下食堂で使用人達の打ち上げでも行うのだろうか。
そんな考えを頭で巡らせつつ、二階へと上がろうとして、
ふと、これから六本目先、柱の影下にとある人物を見付けた。
「―――今日の奴ら、纏めてブッ殺していたら水の国はどうなっていたのか。………面白そうだから来年やってみようか」
こちらが気付いたと判ったらしく、先に口を開いてきた。
内容は、どう聞き砕いても穏やかではない。
放った者は、青を基調とした清涼な印象を持つ魔法学校の制服を身に包んでいた。
黒髪、長髪の、女。
私と同じ三塔の、クルジリス=アーサコロニー。
「冗談だ」
腕組みしたまま、柱に寄り掛かっていたクルジリスは、ポツリとそう付け加えると、
ゆっくり身を起こして、こちらに歩んで来る。
冗談の域を越えていた発言だったが、言及はしなかった。
何やら、不穏なオーラがクルジリスを包んでいる気がした。
「可成り鬱憤が堪っていてね。吐き出し所が無いんだ、手合わせが欲しい」
私の眼前まで歩み寄ると、クルジリスは笑わない瞳に唇を若干吊り上げて、空手の右腕で空を斬る仕草をする。
文字通り、これから一戦交えたいらしい。
「手合わせの相手なら幾らでもいるだろう。他の三塔に頼め」
三塔は現地解散だ。つまりその場で各々が好きにしていい。
探せば城内にもいるのかも知れない。クレアなら高確率でまだ留まっているだろう。
クルジリスが私を手合わせの相手に選んで、わざわざ待っていた理由がよく分からない。
「お前は『シェイク』だがタイプが俺とよく似ている。生粋の近距離型だ。現にL2同士で俺と互角に斬り結べるのはお前ぐらいだ」
「何処がだ。お前との手合いは私が大きく負け越している」
つい、言葉に乗ってしまう。
だが、クルジリスの言い振りに不快に感じる嘘が混じっていたのを看過出来なかった。
口惜しいが、私はこの女に完全に実力で劣っている。
近接は私も得意な所だが、身体強化で上乗せした疾風の俊敏とL2の剣技で嵐のように攻め立てるクルジリスには、防戦で食らい付くのがやっとだ。
ガードで身を守ればいいのだが、生半可なシールドは一点集中にて破られてしまう。
互角じゃない。恨めしいが、私自身がそれを認めている以上、先の発言は侮辱に当たるのだ。
「お前、伸びるよ。今は無理でも最終的に互角かそれ以上になる。とにかく今は吐き出し所が欲しいんだ。頼む」
そう言って、クルジリスは姿勢を正し、私に頭を下げた。
そこに裏の含みは感じられない。
純粋に鬱憤晴らしに剣を交えたいのだろう。
式典内で彼女がやっていた事を察すれば、その気持ちが分からないでもない。
少しだけ、間を取って考えた。
………色良い返事は、やはり出来そうもない。
『ジュエリ』が無く、エーテルでL2を放出し続ければ、呆っと言う間に底を突く。
何より今日は、脚力強化で長時間走り続けたので、両足に過度の疲労が蓄積されている。
とてもクルジリスの剣戟に対応し切れそうもない。
万全でも勝機が薄いのだ。
今なら瞬殺で決する可能性さえある。
クルジリスもそれでは、不完全燃焼だろう。
双方に益がない。
正直に言えば、やる気もなかった。
その旨を伝えると、クルジリスはこの返答に気落ちしたのか、
左目を薄く閉じて、宛てが無くなった右手を宙で平つかせた。
「残念だ。が、少しは立ち向かう気概を見せて欲しいな…。それではレヴェッカ第一皇女を守り通せまい」
「………何、だと?」
その瞬間、自分の中に得体の知れぬ何かが膨れ上がり、大きく塒を巻く。
この心情など気にも留めず、クルジリスは悪びれなく口元を綻ばせると、閉じかけた左目を再び開いた。
「やる気になったか? だが適当を吐いてるつもりはない。
例えば、俺が今からレヴェッカ第一皇女を襲いに行くとして、お前では到底守れまい」
「気が変わった。外に出ろ」
極めて平淡な声で言って、私はクルジリスの横を抜けた。
叩き潰してやる。
負け越しこそしているが、私がクルジリスに一度も勝てなかった訳ではない。
攻める事しか能の無い『アタック』と違い、私の系統は汎用が利く『シェイク』
時には攻め、時には搦め、時には守る事も出来る。
上手く立ち振る舞えば、理論上勝てない相手ではないのだ。
冷静にやれば…
私が、姫様を守れないだと?
腸が煮え滾る。その愚言は、その身を持って詫びさせてやる。
「そう来なくては。扱い易くて助かるよ」
表情が伺えないので、声だけが反芻して響く。
前を行く私の背後を、クルジリスが鼻唄混じりに付いて来ている。
当たり前だが、この正面ホールではやれない。
何処か広い場所…、先に姫様が言っていた『戒めの間』が広くて音も漏れず最適だが、
あそこは立ち入り禁止なので、私情で踏み入るのは不味い。
必然的にリエリア城から漏れる明かりを頼りに、外で、と言う事になるが………
「お待ち下さいメレア様ッ」
そんな思考の邪魔をするかのように、耳から雑音が入る。
呼ばれたのは自身の愛称。
声質で誰なのか分かったのだが、苛立ちの表情を消し切れぬまま振り向いてしまった。
「久しいな。そうか此にはファン爺様も居たか」
クルジリスが、こちらへ小走りで駆けて来る老人を概観し、そう声を掛けている。
現れたのは、ファンロ=バルダビョンと言う専属の庭師。
今頃は地下食堂の打ち上げに加わっている筈だが…
「これはこれは…クルジリス様、一段と凛々しくなられて」
愛用の帽子を取り、私達に向け深々とお辞儀をするファンロ。
「ファンロ=バルダビョン氏、私に何か?」
何かしら用を抱えているのは明白だ、当たり障りなくそれを促した。
しかし声質が些かキツかったかも知れない。
本来なら私も『ファン爺様』とお呼びするのだが、クルジリスの手前、抵抗がある。
「あれからかなり時が経ちましたが、夕暮れ間近にカナード様から言付けを頼まれましてな。
メレア様を御見掛けしたら『私室に来るように』との事でございます」
「カナード様が…、分かりました。今すぐに参ります」
何用だろうか…。ああ、思い当たる件なら幾らでもある。
特に今日仕出かした失態は叱責されるに充分が過ぎる。
「ファン爺様の用はそれだけ? ならこれから少し俺に付き合ってくれませんか?」
「あ、いや…、これから地下で使用人集まっての打ち上げがありましてな…」
「苦手でしょう、馴れ合い。俺を理由に抜け出せばいい。それで互いに利益になる」
「クルジリス様は御強くなられました。この老いぼれではもはや役が務まりますまい」
「今は勝ち負けじゃなく真面に撃ち合える相手が欲しいのですよ。メディーにフラれた今、爺様なら適格だ。
先約は俺でしたよ、爺様が用事を持ってきたなら代わりを務めてくれないと、残された俺が不憫だと思いませんか?」
「ハァー…、仕方がありませんな………」
私が会話を挟む余地も無く、一挙に話が着き、
クルジリスがファンロの背中を押す形で、早々に城外へ出ていってしまった。
瞬く間に、正面ホールに自分一人だけが残される。
先程まで抱いていた例えようもない憤怒の思いは、有耶無耶の内に消えてしまっていた。
「………ちょうどいい。私も御師匠様には用事がある」
姫様から御師匠様宛ての手紙を預かっている。
しかと届けなければ、後日、姫様に何を言われるか分からない。悍ましい。
一度だけ、クルジリスとファンロが消えた先を見遣り、
それから御師匠様の私室へと赴くべく、二階へ続く長い階段を昇って行く。
曩に朱いメレアに抱いた険呑など、この時には思考から疾っくに消え失せていた。
……………
……………
……………
『絶壁の魔女』は室内で独り、物思いに耽っていた。
宛てもなく視線は天井を向いているが、見てはいない。
その姿はとても無防備で、普段の彼女らしくはないのだ。
が、そうせずにはいられない懸念が思考の中に存在する。
「ん…」
ふと我に返る瞬間。
短い息を吐き、寸時の間、右の掌で額を覆った。
(期待は薄かったのですが、やはり来てはくれないのですね)
今、彼女は同じ魔女の名を冠する者に思いを馳せている。
宵度『血吸の魔女』に招待状を送った者は皇族関係者でもなく、魔法協会でもない。
このカナードが、協会からと偽装し『血吸の魔女』に送り付けたのである。
無論、そこに邪な思惑など一縷さえ介入しない。
純粋に、今回は "来て" 欲しかったのだ。
騙すと言う冒険を犯してはみたものの、どうやら芳しい結果には実らなかったようだ。
『血吸の魔女』は、今回の式典には来なかった。
素直に自分からと出しても、彼女は王都に来ない。
それは一度やってみた経験があるから、解っている。
『ならば協会からと言う事にすれば』
この岩戸もこじ開ける事が出来るのでは?
そう淡い期待を抱いてみたが、泡となって消える儚いものであった。
(……………)
魔女は何も『血吸の魔女』だけではない。
『人操の魔女』もいる。
九年前に終結した戦乱を戦い抜いたもう一人の戦友が。
だが、彼女はいつしか名ばかりの魔女となってしまった。
宛てが無い。今、何処にいるのかすら分からない。
風の噂では、ギャンブル狂が更に深刻になり、魔法でレナーを強奪しているとも聞く。
最後に会ったのは四年も前、コンタクトが取れる筈も無い。
なので、こちらは始めから望みが皆無だった。
(せめてクロウデットに見て貰いたかったのですが…、彼女は不穏な事柄には特に感知が鋭いですので…)
既に確証と呼べる事だが、念を押してくれる者が欲しかった。
『血吸の魔女』ならその嗅覚で期待が出来たのだ。
リエリア城には多々の魔法使いが入り出を繰り返しているが、皆、この不穏に全くと言っていい程に気付けない。
共にリエリア城で大半の時を過ごす弟子のメレアも『さぁ…? 特に何も…』と返すのみ。
ならこれは、カナードの杞憂?
いや、危うい魔力は実際に放っているのだ。
しかしとても微弱で、だからあの三塔達ですら分からない。
それは、普段は誰も立入を許さない場所
それは、昔、神と崇められた場所
それは、リエリア城最上階の一室に、広々と設けてある
存在すら触れられない、ただ在るだけの場所
戒めの間
(気配だけならば、以前から感受してはいましたが………)
それまでは、特に取るに足らない類いだった。
何れ対処はすべきだと思ってはいたが、何時でもいい事と暢気な構えでいた。
だが、これはどうした事か。
輓近は徐々に魔力が膨らみつつある。
直ぐに対処しようと『戒めの間』に立ち入るも、未だ曖昧で基因が解らない。
そこには鐘と玉座しか無い。
そのどちらも異常の起動として感じ取る事が出来なかった。
迂闊には手を出せない。
手荒に対応すれば、厄介な誘爆を招き兼ねない。
しかし、もう少しで掴めそうなのだ。
あと幾分膨らめば、精確な叩きようがある。
その助力として、出来ればクロウデットが欲しかった。
『戒めの間』には、今以上に誰も近付く事のないよう、厳命してある。
日々、少しずつ膨らむ『戒めの間』の不穏。
しかし、このカナードに臆する気概は無い。
クロウデットの助力こそ得られなかったが、この程度の異常、その他の誰に知らせる迄も無く対処は出来る。
そうして誰も知らぬが、いい。
彼女は、ずっとそうやって来たのだから。
「お互いにとって、本日が頃合い、と言う事ですね…」
今日を以って、いや正確には夕刻から更に―――
急激に増長してきた。
まるで、式典開催日に合わせるようにして。
此に来て、初めてカナードの胸に去来する泥のような心地。
怪異として珍しい事だが、場所に魔力を感じる実例がなかった訳ではない。
突如として膨れ上がった魔力がバーストする例は協会に完全に伏されているが、確かに観測されている。
その、類いだろう。
自分が居る以上、リエリア城に被害を出させたりはしない。
もはや早急に手を打つべきだ。
これだけ感じれば、叩ける。
本当に今日に合わせてきているのなら、原因が、出て来る筈だ。
・・・
人為的なら、出て来る筈だ。
そこまで予見し、しかし此に、心に刺さる最細鍼が存在する。
この魔力には、カナード達魔法使いが行使する魔法とは、桁が違う霊妙を感じている。
決して、触れてはならない。
そう思わせる程の圧迫がある。
無論、カナードしか感じない。
「………どうでもよい事です、叩けば埃と共に色々と出て来るでしょう」
軽く首を振って、払拭する。
あの場所自体が神聖なのだ。ならば霊妙も宿ろう。
最も憂慮すべきはそこでは無く、もっと別にある気がする。
それを含め、何れは分かる事だ。
軽く椅子を引いて、視野は背後に趣を置く。
窓の外から見える空は、既に漆黒が全てを覆っている。
今まで見えた様々な景色が、溶けて混ざるように。
深く、虚無を招くように。
一度、そこに踏み入れれば、二度と光の下へ戻れない。
そんなネガティブな気持ちに駆り立てられる夜の様。
寸陰―――
今のカナードの部屋に相応しくない音響が、聞こえた。
風の音すら失礼に思える、無音で空気の重い室内だ。
僅かの音すらも聞き漏れない。
その中で急に出た『きゅるるるぅ』と言う間の抜けた擬音。
その発生元は
カナードの、お腹の辺りから
「う………」
ほんの少し表情を赤らめ、カナードは『コホン』と咳払い。
「そ、そう言えば、今日は何も口にしていませんね」
夕刻に運ばれる筈の夜食は、朝の内に調理場で断っておいた。
摂る時間帯、自分は室内にいないだろうと思っての事だ。
年に一度の式典に加え、『戒めの間』の件。
自覚さえ無けれど、確かに気張っていたのだろう。
式典が終わり、僅少ではあるが、緊張の糸が緩んだのか、お腹の虫が鳴ってしまったらしい。
何か口に出来る物はないものかと、キョロキョロと室内を見渡せば、調度手頃なバスケットが彼女の視野に入る。
「そうでした。姫様方に食べて頂こうと作り置いたままでしたね」
軽く身を上げて、バスケットの包みを机へと持ってくる。
改めて椅子に腰掛けると、上に被せていた桃色の布を、真ん中から摘み上げるようにして、取り除いた。
お目見えなるは、多種に形取られた可愛いらしい固形状の御菓子。
菓子作りが趣味である『絶壁の魔女』は、改めて拝見する自らの出来に、頬を緩ませた。
「今日のは会心の出来具合と呼べる物でしたが、姫様方に御賞味していただけないのは、とても残念です。
………このまま捨てるには、些か勿体が無いと言う物。
少しだけ、ほんの少しだけ、少し…だけ…摘むとしましょう」
自らにそう言い聞かせるように独り事を漏らし、カナードは両掌を叩いてこれに相応しい飲物を取りに行く。
御菓子には緑茶と決まっている。
レヴェッカ姫が好む果実から取れるジュースをお供など邪道。
菓子の甘み自体が掻き消えてしまう。無味か渋味の飲物が合っているのだ。
熱いお湯の中にスプーンを挿し入れ、葉を掻き混ぜてから、カップに注いでいく。
その姿はやはり優雅で気品に溢れて見えるが、何となく普段人前で見るカナードには感じられぬ幼さが垣間見えた。
「〜♪」
人前では『菓子作りが趣味』で通っている。
しかし実相は『自分が食べたいから菓子を作っている』に過ぎないのだ。
立場上、彼女は自らの体面を特に留意する。
だからそれを知る者は一人もいない。
菓子作りも全ては皇女方に食して貰う為だと思うだろう。
人前では菓子を食べた事すらない彼女は、他人が介入しない私室に居る時だけ、重荷を解き、本来の自分に戻る。
私室で菓子を頬張る一時が
『絶壁の魔女』
柄の間の安らぎだ。
しかし最近は、この安らぎ、少しばかり遠慮している。
理由は、女の身なら大半の方が気にする所なのだが。
「さて、いただきましょうか」
コトッと熱い茶が煎ったカップをコースターの上に置き、次いで、棚から持って来たジャムの瓶の蓋を開ける。
割と固かった。
『〜〜ん…』と精一杯力を込めて回し、漸く開く事が出来た。
あれよあれよの間に綺麗に整えられたテーブル上。
図らずも巡り会わせた、二ヶ月振り、大好物の甘味。
これから、また一仕事へ赴く。
鋭気付けの意味でも、これは重要なる儀式なのだ。
決して、お菓子の誘惑に負けてなどいない。
食事の代わりに菓子、本来なら行儀以前の問題だ。
重ねて、
鋭気付けの意味で、この菓子は必要だ。
菓子は傷みやすく、作り上げて一日も経てば、サクサクの触感も損失する。
そうなれば、捨てるしかない。
ならばこうして食される方が、菓子にとっても本懐。
なので
決して、お菓子の誘惑に負けてなどいない。
決して………
脳内で同じ言い訳を反芻し、己を騙す。
そう言う意味で、割と下らない葛藤をしながら、カナードは微かに震える指先を甘い香り漂う菓子へ向ける。
その指が、一つを摘もうかという所。
見事、遮られた。
さて、これは何の因果なのか。
ある程度予想が付く、この事をフラグとも呼ぶ。
空気を読む事を知らぬ、ノック音が二度、推し測ったかのようなタイミングで室内に反響した。
「………ッ………」
思わず息を飲む『絶壁の魔女』
目前の扉は、向こうの意志では開かれない。
プライベートを守る突っ張りが設けられており、内部者の意志なくば、何人たりとも踏み入る事が出来ないのだ。
この一時は、誰にも邪魔されたくはない。
なに、時間は取らない。サクサクっと平らげてしまう。
しかしせめて三十分は欲しい。
艱苦の表情で、右腕を伸ばしたまま微動だにしない。
その間に、もう一度ノックの音を鳴らされた。
唇を噛むカナードの脳裏には、居留守の三文字が浮かぶ。
それにしても間の悪い。これは酷い。
火急でないのなら、出来れば、出直して欲しい所だった。
扉向こうに居るのが、弟子のメレアでなければ。
「カナード様、メレアでございます。カナード様、………??………いらっしゃいませんか?」
纔かに動いた指先、もう少しで掴める距離が今は果てに遠い。
カナードは、菓子を掴もうとしていた右腕を引っ込めて、
ショーウィンドの向こう側を見詰める小娘のように人差し指を口に含んで、恨めしそうに、届かぬ桃源を眺めた。
それから、恭しく桃色の布を被せて、机の端まで寄せる。
「今開けます。暫し待ちなさい」
もうその時には、先まで少し崩れていたカナードから偉大なる最高の魔法使い『絶壁の魔女』へと変わり、再び凛然な態度に戻っていた。
彼女はゆっくり腰を上げると、ドアの前へと赴く。
共を失い、孤立した熱い湯呑みは、メレアと内談を交わしながら啜る事となりそうだ。
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